私は、自分で選択することや、考える事が苦手だ。
自分の意見より、すぐに誰かに合わせてしまう癖がある。
そんなことを繰り返してきたので、本当はどうしたいのか?が良く分からなかったり、相手の顔色を伺ってしまうので、すぐ不安になってしまう。
理由を考えると、小さい頃に母親が全てのことをやってくれて、私が自分で考えるという機会が少なかった。
例えば、小学校の時、カバンに教科書をお母さんが入れていたし、誰かに何かを聞かれたらお母さんが答えていたと思う。
その他にもいろいろ過保護な部分があったし、お母さんの顔色を伺って判断していた。
自分の服を自分で選んで買うようになったのは20過ぎてからだったし、就職も実家から通える範囲を出る事なんてありえなかった。
それが、当たり前だと思っていた。
だけど、いつしかそれは、恥ずかしい事だと気が付いた。
周りの子たちは自分でやっていることなのに、私は親にやってもらっている。
そんなことも自分でしていない、だらしない子なんだろう。
誰かに言われたかどうか分からないけど、そんな気持ちになっていた。
お母さんがあれこれ選択するから、私は自分で考える力が弱いんだと思った。
考える力が弱いから、分からない事があると自分で考えるより、どんな些細な事でも人に聞いたりして怪訝な顔をされた。
私が考えるより先に選択されたので、自分が何が好きなのか分からなくなった。
さばのには難しいからといって、母が作業をこなし、「失敗すること」を避けようとした。
そのおかげで、失敗をすることは悪い事とインプットされて、行動することが怖くなった。
お母さんの育て方のせいで、私はこんなに自分に対して否定的なんだと思った。
私に自己肯定感が低いのは、親のせい。
私がこんなんになってしまったのは、親の育て方が悪いからだ。
そして、些細な事でずっとイライラしてたんですよね。
○○してくれないとか、そんな感じのイライラ。
多分⇧の事を言った事もあったと思います。
そしたら、お母さんは、「ばーちゃんがやってあげなさいって言うから、やってあげた」と言った。
お母さん自身もまた、選択することを委ねていたのかもしれない。
それは、さて置き。
私が、こんなに苦しんでいるのはお母さんの育て方が悪い!無条件の愛情をよこせ!!!という気持ちでイライラしてたんです。
でも、ある日ふと気が付く。
お母さんから、無条件に愛情を注いでもらう事はどう考えても無理じゃろうし、自分の理想の母親像にうちのお母さんがなるのはちょっと気持ちが悪いと思った。
だったら、自分で自分を育てた方が早くね?
と思ったので、図書館で子育ての本を借りて読んだりしていた。
本には、子どもの感情に気付いて復唱してあげる等、肯定してあげることが大切であるということが書いてあった。
結局、自己肯定感を自分で作っていくしかないよなぁ~と思う。
まぁ、それが難しいんだが。
自分で育てるしかない!と思ってからは、そこまでお母さんに対して癇癪を起すことは減った。
散々お母さんの育て方が悪い!と言いつつも、お母さんなりによかれと思ってやっている事は、なんとなく分かる。
過保護というのは、やってあげたいという気持ちからだし、私に失敗させて悲しくなったり、危険にならないように回避しようとしていた部分もあると思います。
それに、今みたいに自己肯定感って言葉もなかっただろうし。
仕方なかったんだろうなぁ~と。
だからと言って、本当はお母さんって私の事、大事に思っててくれてたんだね♡ありがとう♡みたいには、ならなかった。
あー、ハイハイ。そういうことねって感じ。
自己啓発本にはね、そこから感謝の気持ちが湧いてね、なんかいい感じになるらしいけどね、そうでもないみたい。
で、それもまたさて置きなんですけどね。
今、また同じ現象が起きてるんですよね…。
にわとりさんが○○してくれない(#^ω^)
それが煮えくり返っている。
にわとりさんに対してイライラしているのは、根底に「にわとりさんは私の事が好きじゃないから○○してくれないんだ」という思い込みからなのだろう。
きっとこれも、私が気付いてないだけで、にわとりさんなりの愛情があったりするんだけど、それがなんなのか分からない。
ダイレクトににわとりさんに愛情表現って何?と聞くと、下ネタが返ってくるか、わかんね!と返されるだけであった。
長くなったけど、タイトルの「私の機嫌が悪いのは誰のせい?」は、何だかんだ言っておそらく私のせいなのであろうと思う。
冒頭に戻るけど、親の選択を私が選ばなければいいことだし、にわとりさんを選んだのは私なのだし。
自分の機嫌を誰かに直してもらおうとすればするほど、辛くなるのは間違いないだろう。
自分で自分の機嫌を取ればいい。
そうなんだけどさ。
何で機嫌を取ればいいのか分からないのであった。
つづく。